心の底の景色(震災生活の中でできることパ−トU)

                                    NPO法人 福岡気功の会

                                         会長 気功家 山部嘉彦 嘉彦

 

大震災が起こって分かったこと

 前回の講座は地震が起こって8日目に開かれました。まだ被害の全容が分かっていない頃合いでした。つまり、被害者と傍観者に色分けされていくその進行形の時でした。私たちはそれを見ていたのでした。その後の展開は、周知のとおりです。ところが、その後の1カ月の間に、状況は一変しました。震災の影響が、日本全国に及び、世界全体に及んでいきました。霧に包まれたように。そしてその霧が晴れてきて、まるでもう済んだことであるかのような無関係無関心の別動も生れてきました。

 たいていの事故事件はそのようにして被害の中心は傷跡となり周辺では忘れ去られていくものです。ところが、今度の震災は、断続的に各地に勃発する余震と原発事故の「おかげ」で、さまざまなあらたな被害が将棋倒しのコマのように次々に現われ、遠くへ奥へと影響が波及しております。卑俗な例で言えば、地震津波原発風評電力不足政争/暴露…と事件の連鎖を呼び起こし、それをマスコミが増幅して不安と焦燥をまき散らすという状況です。

 これらはみな、表面的な、目に見え、耳に聞こえる事象です。ところが、影響は見えな

いところ、聞こえないところにも及んでいます。

 私は地震が起こって10日後には『震災ノート』を発表しましたが、これは、被災の現場

ではほとんど意味をなしませんでした。それどころではなかったのです。また、『震災ノ

ート』の情報と実践定着を仲介する「通訳」が不在だったこともあります。現場でこれを

活かすには、落差を埋める人材派遣が必須だったのです。

 ところが、現場から少し離れたところに住んでいる人からは、役に立った、役立てよう

と思った…という声をいくつも聞くことになりました。これは意外な反響と言えます。

 つまり、今度の震災は、文字どおり巨大震災だったのです。震災は「心災」として日本

全域を襲い、キナ臭さは全世界に及んだのですから。

 

貧弱で幼稚な心

 やはり、人間は「心の動物」です。健康について日常気にするものは健身ですが、非日常においては康心が第一なのです。

 人が傷つく、というときケガをしたのではなく、心が傷つくのですが、心の傷が大きく

深くなるのは、身体の傷と同様に、衝撃が大きく、強いときです。たとえば不意打ちです。しかしそれだけではありません。心に特有の条件があります。いくら衝撃が大きく強くても、覚悟していたことであれば心の傷はそうでもないのです。心を支えるものは愛情です。愛情の反対は憎悪とか敵意ですから、憎まれたり敵愾心を燃やされると、心はたじろぐのです。自分が当の相手を憎んでいたり敵視していれば相手からの憎悪や敵愾心には備えられます。しかし、裏切りなどによって、愛情を感じていた相手に思いがけなく激しく攻撃を受けると、そのショックは非常に大きくなります。

 地震にも津波にも心はありませんが、人間の側からすれば、大地も海も敵ではありません。母なる大地、母なる海と形容されるように、愛情を交わす相手である以上に頼りになる存在でした。その大地と海から、人々は突然、激しい攻撃を受けたのでした。

 「何の落ち度もない被害者に執拗な攻撃を加え…」とは地裁の裁判官が書く刑事裁判の判決文の常套句ですが、犯人がいれば「被害者の無念は察するに余りあり…」となって、「極刑もやむを得ない」と続いて、人の心は漸くにしてわずかに溜飲を下げ、収まるのです。つまり、仕返しをして気が済むほどに、心はきわめて幼稚にできております。なかなか進歩するものじゃない。アメリカ人がオサマ・ビンラッディーンを主権侵害無法テロでぶち殺して狂喜乱舞する姿を見ると、その次元の低さに私の心はすっかり冷えてしまいました。ダメだ、こりゃ。

 それゆえ、こなた、地震・津波に襲われた東北の人々の心の傷は、修復されずに、ずっと痛んだまま疼き続けているのだと見ることができます。

 物理的なものであれ、言葉によるものであれ、態度で示されるものであれ、金銭によるものであれ、それがいわれのない攻撃であるだけで、人の心はたちまち傷つきます。人の心は弱いのです。みんな、弱いと思って差し支えありません。強く見える人も、そうふるまっているだけのことで、実はみな例外なく弱いのです。

 この弱くて傷つきやすい心を、どう扱えばいいのか。また、傷ついてしまった心をどう

修復すればいいのか。健康のための方法は、傷ついて癒えていない心の持ち主には、無効なのです。第一、進んでやる気にならないのですから。

 ここには、いくつかの法則があります。

 傷ついて癒えていない心の持ち主は、いっそう傷つき易い。

 そのため、傷ついて癒えていない心の持ち主は、いくつかの方法によってこれ以上傷つかないように、特別な態度をとるのです。

攻撃的になる。攻撃的にふるまうことで防禦しようとする。

自閉的になる。関係を持とうとしない。構わないでくれと言い、よそよそしくふるまう。

逃避的になる。場を避け知己を避ける。隠遁。旅に出る。

 しかし、人が本能的に採用する以上の方法は、心の傷を癒すのに実はあまり効果的ではありません。もっとも効果的な方法は、おそらく、傷ついた心を修復させるのではなく、傷ついた心を棄ててしまって、新しい無垢の心と入れ換えてしまう方法なのです。

 ただ、傷ついて使い物にならない心であっても、自分のものである以上、棄てろと言わ

れても棄てられないものです。ですから、次善の方法として、傷ついた事実を忘れる、と

いうのがあるのです。実際には、一時的に忘れる方法があるにすぎないのですが。そしてそれは、一時的に傷ついた心を手放して、無垢な心で遊ぶ方法でもあるわけです。

 傷ついた心は、基本的にうずくまっていたいのです。じっとしていたい。そうして癒え

るのを待っていたいのです。もちろん、それが自然です。けれども、たいていはそれを許

さない事情があるものです。仕事だとか、家族だとか…。だから、つい無理をして、かえ

って傷を深くしてしまいます。

 日本神話に、天の岩戸に隠れてしまったアマテラスの話があります。アマテラスの場合は傷ついて穴籠もりしたのではありませんでしたが、ふさぎ込んでしまったのですから構造は同じです。そのアマテラスが、外の音(笑い騒ぐ声)が気になってちょっと覗いてみる気になりますね。そして、それが神々のシカケだとは知らずに(騙されて)ちょっと岩

とを開けたところをタヂカラヲにこじ開けられ、世に光が戻ったのでした。

 アマテラスの心が、笑い騒ぐ声によって動かされた、というところがミソなのです。心

が動かされるとは、心が入れ替わる、今の心を棄てる忘れることと、同じです。暗く沈ん

だ心や傷ついて塞ぎ込んだ心は、何に反応するでしょうか。何にも反応しそうにない心も、生きている以上は反応するのです。

 できるだけ、良質なものに反応させなければなりません。できるだけ、力が湧いてくる

ように反応させなければなりません。だれもが同調できるように反応させなければなりま

せん。そこに智慧と技術があります。技術としては潜在意識に仕掛けるのです。智慧としては進取の気象にはたらきかけるのです。それは強いものか、美しいものに接続します。人は強いものや美しいものに惹かれるものだからです。

 進取の気象というのは、なーんだ、そうだったのか。ふーん、なるほど。…と感じる心

のことです。潜在意識に仕掛けるとは、出ない元気、出ないやる気にはたらきかけて、発火させ、その気にさせる技術のことです。

 

人を励ますこと

 傷ついて、疲れ切って、すっかり落ち込んでいるとします。

 そのとき、「なあ、元気を出せよ」と声をかけられても元気は出ません。どんなに親し

く、好きな人に声をかけられても、出ないものは出ないのです。

 しかし、こういうのはどうでしょう。

 

 元気を出そう。楽しく生きよう。剌と生きよう。じめじめしていないで、活

々した生活を営もう。望みを失うまい。力を落とすまい。いつも愉快でいよう。

明るく朗らかでありたい。若さを失いたくない。びくびくしていたくない。その

土台は元気だ、活気だ。元気を出そう。

 

 活気が充ち満ちていれば、いつも明るく、楽しい。花が咲いて楽しくないなら、

元気がないのだ。雪が降って嬉しくないなら、活気が足りないのだ。失敗して起

き上がらないのは勇気がないからだ。風の吹くのが気にかかったり、雨の降るのを厭ったり、曇った空が恨めしかったり、晴れた日が面白くないのは、みんな元気が欠けているのだ。

 

 生きていることが嬉しくないのは、力が乏しいからだ。元気を出そう。そして

嬉しく生きよう。ニコニコ出来ないのは元気がないからだ。快く働けない、爽や

かに目覚めない、ぐっすり眠れないのも、元気がないからだ。不健康なのも、疾

  病が中々恢復しないのも、活気が乏しいからだ。

 思うことを話せない、人の悪いことを制止できない、良いことを人に教えられ

ない、人を導けない、人に委せきれない。又、仕事するのが面倒だったり、音楽

を聴くのがうるさかったり、面白いことがつまらなかったり、嬉しいことが癪に

触ったり、人の笑い声でイライラしたりするのも、本当に元気がないからだ。

 人からの相談がうるさかったり、考えたことが行なえない、思ったことが出来

ない、楽しく話し得ない、嬉しく思えない、快く感ぜられない、生きていること

が不快なのも、みんな活気が充ち満ちていないからなのだ。

 

 幸福でありたければ元気を出さねばならない。希望を持とう。春のいのちを忘

れまい。足は大地を踏みしめていても、眼は常に太陽に向けていよう。たとえ雲

が光を蔽っても、私らは心から光を失うまい。いつも光と偕に生きよう。人生が

暗く淋しく思える人は、自分が明るくないのだ。

 希望がなければ、剌としていられよう筈がない。剌としていなければ愉快

であろう筈がない。愉快でなければ、嬉しかろう筈がない。嬉しくなければ鳥が

鳴いても面白くない。ご馳走を食べても美味しくない。蓄音機がなっても快くな

らない。 希望を失うまい。元気を落とすまい。いつもニコニコしていよう。

 

 どうですか。この励ましの言葉の、並べ方の妙は。疲れ切って希望が持てず暗く沈んでいる時に、こういうふうに言われたら、どうでしょう。心が動くのではないでしょうか。

たちまち元気に明るくはなれなくても、そうだなあ、そのとおりだなあ。希望がないなん

て言ってられないなあ…と思わせられてしまうような力があります。

 この文章には、愛情があると思いませんか。こどもが母親に抱く信頼と同じ匂いがあると思いませんか。でも、ベタッとした愛情ではなくて、ちゃんと距離感がある。だから自

分の足で立ち上がる気持ちになる、そういう励ましです。

 誰が誰のために発した言葉でしょう。これは特定の対になった関係で発せられたものではないでしょう。大勢のくたびれ果てて敗北感に打ちのめされている人々に向けて発せられたものだと思います。でも、これを読んだら、読んだ人が励まされている気分になります。(野口晴哉 『全生』2011年5月号所載)

 こういう愛情を、持っていなくてはなりません。ほとんどすべての人が、ベタベタの対

の愛情の言葉や態度は、腐るほど持っているけれど、微妙な距離感を保ちながら、その気にさせる強い励ましの言葉は、持ち合わせてはいないものです。それは、同胞愛のたぐいですが、親密な犠牲を厭わぬ同族愛よりは、敬愛と信頼の同志愛に近いものです。

 

快感の型

 かつて、快感の要素と構造について、話したことがあります。

 

 
     重きを置く価値
  快感    美意識  体癖  
   自己愛。包まれ守られている快感。独占。従順。  集注の快       間、緊張  律動  音色色彩  10
   漸増の快。蒐集の快。大量の満足。誠実。愚直。  達成の快  78
   協調の快。和合。仲良し。温和の美。情感。  耽美の快  34
   発見、自由、自立の快。序列、秩序。英断。  進取の快      変化落差  完成度  56
   正義、理想、一貫性。崇拝。あこがれ。信念。  空想の快  12
 1〜3は、共同体内秩序における心の安定を促進する美徳の素材であり、4と5は、共同 体間秩序または共同体からの離脱における心の調整を希求する知性の素材である。
 

 心の動き方、動機は、人によって違います。事象に対する反応のしかたが違うのです。そのもとを辿れば、感受性の方向すなわち何に快感を感じるかにそれぞれのクセがあるからです。上表の「快感要素」は、文化・教育の環境によっても、遺伝的条件によっても、継承され個人の中で定着の傾向をみますが、人はみな、1〜5の心を持っており、反応するのです。また、一つだけが突出したり、逆に一つだけがロックされることはごく少なく、たいていはミックスされています。幼少時と青年期では違い、老年期に変化することもよくあります。

 まず、自分の先天的なタイプ(根性)を知り、今の自分の成長タイプを知ること。そし

て、身近な人の快感反応から、自分とは別の快感価値き快感反応を持っていることを観察してみましょう。そうすると、ものごとを伝えるにしても、誘うにしても、励ますにして

も、言葉を選んで使うことができるようになれます。

 また、人の言葉や態度に、今まで感じることがあった悪気が実はないことが分かったりします。